
髪を切りたい。
そう思ったので、大阪から二時間かけて、私は和歌山刑務所にやってきた。
和歌山刑務所は、W級刑務所。つまりは「女性刑務所」である。軽犯罪から殺人まで、女性受刑者だけが集められている定員500人の刑務所だ。最近では矯正展などで外へ開かれてきているが、まだまだ刑務所は未知の場所というイメージが強い。
そんな刑務所に白百合美容室はある。
和歌山刑務所の敷地内にあるそれは、矯正や職業訓練の一環として行われている。美容室、理容室を持っている刑務所は多いが、正直なところ髪を切る側の受刑者と一般市民との間には、とても大きな壁があると思う。
和歌山刑務所は薄いパステルカラーと三角屋根という見た目をしており、刑務所という感じではなかった。でも目の前に行ってみると、その入り口は重厚な鉄の門で閉ざされている。
そして、御影石に大きく黒字で書かれた「和歌山刑務所」という文字をじっと眺めて、ああここはやっぱり刑務所なんだなあと思い知る。

警備員の人に申し出ると、特に何も書いたりせずに中に入ることが出来た。学校の自転車置き場みたいなところにレンタサイクルを置き、ぐるりと見渡した。整備された池がある。パステル調に見えた刑務所の壁には、緑色の木が描かれていた。やはり刑務所らしい暗いイメージは受けない。
白百合美容室受付と書かれているドアがあった。入ってみると、それは事務所のような所だった。
青い服を着た刑務官らしき人達が、全員こちらをバッと見て、思わず圧倒された。
「う。あのー、えっと、髪の毛切りに来たんですけど…」
そういうと、「あー!はいはい」とあわただしく係員が駆け寄ってきた。
お金を払った。カットのみ、1200円と破格の値段である。

「ちょっとすぐに対応できるか聞いてみますね」
そうスタッフが言うと、どこかへ電話した。
「…はい…はい…分かりました…」
「すぐに切ってもらえそうです!」
混んでいる時もあると聞いていたので良かった。手渡された番号札を持って、美容室があるという棟に連れて行ってもらう。
歩いていたら、係の人が聞いてきた。
「ここのこと、なんで知ったんですか?」
「うーん…なんでしょうね…」
好奇心で冷やかしに来たと思われたら嫌だなあと思って、曖昧に濁した。
実際のところは、矯正に貢献しようなんて崇高な気持ちはなく、ほぼ好奇心のみだったのだけど。

美容室へ入ると中には女性が4名居た。ここでもやはり皆一斉にこっちを向いた。
青い制服を着ている刑務官がひとり。
白い作業服を着ている女性がふたり。
そして、緑の作業服を着ている女性がひとり。
どれが受刑者なんだろう?指導者みたいな一般人は居るのか?
分からないけど、皆とても驚いた顔でこちらを見ている気がした。
受付で刑務官に荷物を預ける。携帯も全て預けてくださいと念を押される。
「こちらへどうぞ!」
緑色の作業服を着た、若い女性が元気よく声をあげた。
この人が、受刑者なんだ。
ノーメイクの肌は白くつるつるしている。若い。20代前半ぐらいだろうか?
奥二重だけどしっかりとした顔立ちの、可愛らしい女性だ。

「今日はどんな感じにしましょう。」
「ええっと、こう、バッサリ切っちゃってください。」
顎下らへんで切る動作をした。
「ええ?!…いいんですか?かなり長いですけど、大丈夫ですか?本当に、切っちゃうんですか?」
とても驚いた表情で、彼女は私を見た。
「はい。いいんです。」
「分かりました…」
どこか、困ったような顔をしているようにも見えた。
「どんなイメージっていうのはありますか?」
「前髪はほぼそのままで、後ろは結構短めで…重ためで…なんていうか…」
雑誌を持ってきてくれるが、なんというかどれも違う。
言葉で、上手く表現できない。
そういえば、携帯電話にはネットから拾った画像が入っている。
「ええーっと、携帯に画像があるんですけど、パッと見せることは出来ませんかね?」
「!!!あの、えっと、それは、担当に聞いてみないと…!」
刑務官が飛んできた。
「それは規則で禁止されているんです、申し訳ございません!」
肩でもガッとつかまれるというくらい、凄い勢いで断られた。そこまでの禁止事項だったのかと内心ビビりながら、
「じゃ、じゃあ、大丈夫です。」
といってまたパラパラと雑誌をめくった。

モデルが並ぶ中で、大人っぽいけど可愛い原田知世が目に入った。ボブマッシュのような感じだ。
「あ、これとこれを足す感じでお願いします。ごめんなさい、ややこしいこと言って。」
「いえいえ、こちらこそごめんなさい。」
そんなことを言い合い、ようやく方向性が決まった。黄色のタオルを首に巻かれ、その上からバサッとパステルピンクの合羽を着た。
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髪は女の命、なんて言うけども、そこまで髪に対して思入れはない。普段の私は、安くて沢山入っているシャンプーでグシャグシャ洗って、適当にペペペとトリートメントを塗る。
風呂から上がると、癖毛の部分だけドライヤーして、あとは自然乾燥することも多い。女性だったらもっと気を使うべきだとも思う。気が向いたら手入れするけど、自分の今の生活のように、放ったらしで枝毛だらけのパサパサの髪。
近頃暑くなってきて、ギシギシと汗ばむ首に絡みつき、締め付けられている気がする。
ああ、息が詰まる。
髪を切るのにちょうど良いタイミングだと思った。仕事は来月から転勤だし、プライベートは色々新しく挑戦することも増えてきているし。とてもとても楽しいけども、初めてのことばかりで、先が見えない霧の中をずっと走っている気分でもある。
沢山の先人達が居るだろうけど、自分が選ぶ道は全て自分にとっては初めての道だ。いつ、崖から落ちるか分からない。笑いながらつまずきながら結構ギリギリのところを走っている。
霧の中は、息が詰まる。
身体的に精神的に変わりたい時に、人は髪を切るのだろう。
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「じゃあ、いきますね。長いので、荒切りさせてもらいます。」
そう言って、彼女はそっと髪にハサミをあてがった。
「はい、いっちゃってください。」
わたしもそう言った。
ジャキリ、ジャギリ、ジャギリ、
大きな音がしたあと、フッと、頭が軽くなった。彼女の手には、30cm程の髪が握られている。ああ、髪とはこんなに重かったんだなあと思った。
「最近急に暑くなったですもんね。きっとこれだけ切ったら涼しいですよ」
彼女が話しかけてくる。白いカーテンの向こうで、太陽がアスファルトを焼いているのが分かる。外は暑かったので、涼しい室内に入ってもまだ汗は引かない。

ふと、鏡に目をやると、後ろにいた白い作業服の初老の女性2人が見えた。クロスステッチをやっているようで、ちくちくと糸を通している。
じーっと眺めていると、そのうちの1人がおもむろに挙手した。
「話しかけます!」
端にいる刑務官にそう大きな声で宣言し、横にいた女性に作業のことで話しかけた。
ハッとした。ああ、そうか。
ここは刑務所で、彼女達は受刑者なんだった。話しかけるのにも許可がいるのか。
チラリと鏡越しに、後ろに立っているハサミを持つ彼女を見る。爽やかな顔は真剣で、とても罪人には見えない。想像していたような、幸が薄く暗い影があり、苦悩の中で生きている罪人とは違う。
彼女はどんな罪を犯したのだろうか。
女性受刑者で多い罪とは、覚せい剤所持と窃盗が8割を占めると聞く。
そして残りは、殺人。

「襟足はどうしますか?」
「…あ、結構切ってもらって、刈り上げるくらいにしたいです」
「分かりました」
ヒヤリとしたハサミが首筋に当たる。ドキ、と別に意識してないのに心臓が鳴った。
シャキ、シャキ。
気持ちの良いリズムが耳元でこそばゆく聞こえる。そのリズムに乗って、勝手に色んなイメージが浮かんできた。
刑務所、受刑者、殺人、殺人、
ハサミ、血、ハサミ、ひとごろし。
別に意識していないのに、テレビや漫画で見た光景が浮かぶ。ゾワゾワと背筋が浮く感じがする。
シャキ、シャキ、シャキ、シャキ。
勿論、何も起きない。汗ばんでた首元に毛がくっ付いて、痒い。身を捩らせる。
彼女は何の罪を犯したのだろう。
私は知らない。

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髪は、どうして昔から大切にされてきたんだろうか。ただの体の一部なのにどうしてこうも重要視されているんだろうか。
人間の身体の中で、一番時間を可視化できるからだろうか。積み重なった年月が、髪一本一本のケラチンに変わり、自分の生きた過去の証が刻まれているように捉えるのだろうか。
長い長い髪が足元に散らばっている。だいたい三年くらい伸ばしたかな。
特に、ちょうどこの三年くらいは色々なことがあった。人生の中で一番濃密で重い時間だったかもしれない。こうやって見ると、黒くてまだらに茶色い毛は、まるで命を持った別の生き物みたいだ。
鏡越しに眺めていたら、後ろに居た受刑者が、ザッと箒ではいた。
あ、と言うこともなく、モサモサとチリトリに集められ、私の三年間はゴミ箱へと入り消えていった。
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「ここへ来たのは、なんでですか?誰かの紹介ですか?」
先ほど係員に言われたのと同じ質問をされた。容易な話はしないように、と案内に書かれていたけど、客に話しかけるのは仕事の一部として黙認されているらしい。
「いえ、なんというか。気になってて。」
また、お茶を濁した。
「そうなんですね。お客様みたいに若い女性はなかなか来ないので、ビックリしました。」
ここへ来るのは年配の女性が多いようだった。飛び込みで入る人は少なく常連ばかりで、新しい人といえば地域の人の紹介だという。
先ほどあれ程までに驚かれたのは、その為だったんだろう。
「あと、こんなにも長い髪を切る人はとても珍しいのでビックリしました。本当に私が切って良いのかと、今も緊張しています。」
そんなことも言った。
「良いんですよ、ちょうど、切りたかったんで。」
「…ありがとうございます。」
本当に取り留めもない会話を続ける。雨になったらウネる癖毛のこととか、最近出てきた白髪のこと。午前中は結構混むんです、とか。
天気のこと、とか。
横では刑務官が何か帳簿のようなものをつけている。
お互いに言葉を選びながら、良い距離を探している気がした。そして実際に、眠くなりそうなくらい気が抜けていた。髪の毛を触られるのは気持ちがいい。
「お上手ですよね。美容師になって、長いんですか。」
これぐらいだったらいいだろうと聞いてみた。
「いやいや、そんなことありません。」
はにかむように彼女は笑った。
「普通の世界だと、アシスタントを四〜五年程してから、やっと髪を切れるようになりますよね。もし同じような仕組みだと、その、今のこの仕事は出来ていなかったので。ここは本当にありがたいです。」
ということは、四〜五年に満たない刑期なのだろうか。三年くらいなのかな。普通の世界、という言葉が耳に残った。
「まだまだ、勉強しなきゃって思います。」
その顔は、やはり思っていた犯罪者の顔ではなかった。
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「髪の量を整えていきますね。」
シャ、シャ、シャ、
ハサミを使って髪を切る。
ハサミを使われて髪を切られる。
少しだけ関係性は違うが、今お互いからの距離は同じだ。彼女は罪人らしい様子はない。きっともしここで服を交換しても、傍目から見たら大きな違いはないだろう。もしかしたら、私がハサミを使う側だったのかもしれない。そんなことを思った。
今まで、過ちをおかしそうになったことは全くないと言い切れるだろうか。
もうどうしようもないという絶望の状況で、あるいは軽い気持ちで。
窃盗をしたことはないが、友人が万引きした話を聞いたことは何度もある。この状況なら盗んでも絶対にバレないだろうと思ったことも何度もある。
人を刺したことはないが、小学校の時に同級生がコンパスで級友の背中をブスブス刺してたのを見たことがある。誰かを殺したいと能動的に思ったことはないけども、あのブス死なないかなぁとドス黒い気持ちを持つことはしょっちゅうある。
きっと誰もがそうだ。ギリギリの所で運良く今のところに立っていられるけど、もしかしたらハサミを使う側だったかもしれない。ハサミを使い誰かを刺して、そして、ハサミを使って髪の毛を切っているのは、私だったかもしれない。
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「…どうでしょうか。」
ガバと鏡を開き後頭部を見せながら、不安げに彼女が聞く。
襟足は刈り上げ。丸いフォルム。これは、なかなかに、
「…うん。気に入りました!」
ほっとしたように、彼女は心から嬉しそうに笑った。たっぷり1時間半。カットだけなのにじっくりと希望をきき、様子をうかがいながら少しずつ切ってくれたからだろうか。
「本当にいい感じです。くせ毛なんで気に入らないことも多いんですけど。これは、自分で言うのもなんですが、可愛い。」
「あなたにお任せしてよかった。」
彼女が、何かぐっと噛み締めたように見えたのは気のせいだったか。
「頑張ってくださいね。」
そう声を掛けた。
彼女はありがとうございましたと言い、そんなにしなくても良いよと思うくらい、深々としたお辞儀をしてくれた。
外へ出ると、今まで重たかった頭が軽い。陽射しはきつく一瞬で汗が出てくるが、首元を通り過ぎる風は、彼女が言ってたみたいに涼しい。

彼女の罪は、彼女の罪の重さはどれくらいだったのだろう。
私の重い髪にハサミを入れた時、彼女は何を思っただろう。変な奴が来たと思っただろうか。
白百合美容室に立つ人は、出所間近だという。ここを出所してから、今日を思い出すことはあるだろうか。わたしの髪は、わたしの三年は、彼女の力になるのだろうか。
なんて考えるのはおこがましいけど。
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正直なところ、髪を切ったからと言って、そんなことで人間の本質は変わりはしないと思う。
でも、何も変わらないかもしれないけど、人は髪を切る。
変わりたいという願いをこめて、人は髪を切る。